すぐに結論を求めること

すぐに結論や答えを求められることが多い。結論や答えがないのに意見されても困る場合とかもあるだろうが、雑談とかでも結論や答えを用意してあるのが前提なペースで話されることがあり、そんなつもりではないのだけどと思ってしまう。会議ではない場所で話しているのは問題意識のシェアが目的で解決をしたいのではない。答えや結論をすぐに出そうと思っての活動ではない。

というようなことを思う機会が増えた。きっと余裕が無いのだろう。

わたしは答えがすぐには出ないことが往々にしてあることは知っているし慣れている。慣れ過ぎてわからないことを数年単位で放置してしまっていたりもする。それ自体はいいことだとは思っていないが、すべてのことに答えがあるわけでもないし、むしろ答えが出せないと嫌だとか辛いとかいうのは不健康だと思う。普通学校のテストのように答えがばっちり決まっている問題なんてないのだから、むしろ答えが出ている状況のほうが異常だと疑うべきじゃないだろうか。

生活をしていると様々な課題に直面するが、「このツールを使えば解決するよ」という進言の9割は宣伝で残りの1割は善意の押しつけだ。銀の弾丸はない、問題に対して適合するツール、運用はその課題に直面している人々が誰なのか、いつまでに解決したいのか、解決することにどんな益があるのか。そういったことを知らず検討せずに解決方法だけ導入しても解決には至らない。

課題には様々な前提がある。例えば、顧客の期待値を調整することがプロジェクトを成功させるためには重要だということを主張しよう。この主張に異議を唱える人はいないと思うが、「じゃあどうやればいいんだ?」と思う人はいるかもしれない。それは、場合によるとしか言いようがない。顧客のリテラシーは、相手は大口の顧客か否か、我々に与えられた予算はどれだけか、様々な条件により考えるべきことは増えたり減ったり変わったりする。そこで考えるべきポイントや落とし所を見つけられるようになるにしたがいたまっていくのが「ノウハウ」で、これは本当に価値のあるものであり普通手に入らない。そしてノウハウは普遍的なものだが、そのノウハウから得ることのできる答えはその顧客にしか適用できないものだからだ。

あまりいい例ではなかったかもしれないが、結論や答えはその様々な前提が存在する中のもので一般性に乏しい。その答えに至るまでの回答の筋道こそが実は普遍的な価値を持つ。答えは探すものではなく、自分で導くものなのだ。当たり前だけど。

世の中ベストプラクティスなんて決まっていないことのほうが多い。普遍的な回答なんてない問題がほとんどなのに、不合格点をとるのを恐れて未提出にしているケースがあるように思う。わたしは、15点でもいいから自分の答えを出したい。

自分語り専用ブログをやっていく。

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