実家の自分の部屋の本棚を眺めていた。特に目ぼしいものはない。既に読んだことのあるもの、途中で読むのをやめたもの。そんなものばかりだ。特に思い出すことはない。だけどある1冊で目が止まった。
その本を、『私の男』という。
映画化もされていて、とても不思議な物語だ。そう、よく覚えている。
さて、なぜ知っているのだろう。映画を見たのだろうか。先に小説を読んだのだろうか思い出せない。どうしても思い出せなかった。
見たとしてどこで見たのだろう、誰と見たのだろう、なぜ見たのだろう、そうしたことが頭からすっかり抜け落ちてしまっている。もう5年も前のことだからと言ってしまえばそれでおしまいなのだが。
映画の公開時期と、自分が見た時期を調べて、たぶんあの人と見に行ったんだろうと思った。Twitterのつぶやきからは見た時期しかわからなかった。過去の自分は周到に、自分の記録を消していた。
記録から消えたことは、記憶にさえも残っていない。
5年くらい前に、今までの自分の全てを消してしまいたいと思った。突発的な感情ではない。自分が許せなかった、自分が変わらなければならないと思った、自分が自分であり続けてはならないのだと思った。過去の罪を清算したかった。そして、何もかもが嫌になった。
自分にまつわるあらゆることを、削除しようと思った。だから僕のブログ Diary over Finite Fields は 2014 年以前の記事はほとんど残っていない。Twitter はかろうじて残っているが、意味のある情報を抽出するのは本人にも難しいだろう。
過去を消して生まれ変わりたいと思った。狂おしいほどに消したかった過去が、たまたま目の前の『私の男』たった1冊 — それも背表紙だけ — で思い起こされた。
いくら記録を消したって、どれほど時間が経ったって、忘れたはずの記憶なんて、ほんの些細なきっかけで呼び戻されてしまう。忘れたいことほど、忘れられない。
どこまで行っても、自分は自分でしかないのだ。
自分は自分でしかない。記録を消そうとも、時間が経ちあらゆる記憶が曖昧になろうとも、すっかり抜け落ちてしまおうとも、僕は僕でしかない。そんな当たり前のことに諦めがついたのは、本当にこの半年くらい前の話。僕は僕にしかなれなかったし、僕は僕でしかいられない。
狂ったように記録を消すのは、今思えば自分という存在を孤立させるための作業だった。僕はただひとりになりたかった。僕は僕のまま、この一生変わらないで死にたかった。静かにこの一生を終えよう、誰からも注目されず、誰にも影響を与えず、そっと死ねるように努力しよう。真剣にそう思っていた。「生きる」の胃がんを宣告されるまでの主人公のように。
今の僕は、自分がどうなりたいと思っているのか、よくわからない。もしかしたら、未だに5年前と同じように変わらないままでいようと思っている部分もあるかもしれない。
でも、せっかくだし、言い切ってみようか。嫌いだった自分へ、そして — へ。
さようなら。