最近よく泣く。

中学のときくらいまでは全然泣かなかったし、泣くなんていやだった。感動するコンテンツとか見ても涙は流さなかった。高校時代から少しずつ涙もろい人の気持ちがわかり始めた矢先、大学時代に涙が枯れるようなことがあってまたしばらく泣かなくなった。

最近はよくスポーツ、特にサッカーを見て泣いている。試合内容とかもあるけど、監督や選手、サポーターが勝利に向かって全力をぶつけあう光景になんか感動する。特に観客席のサポーターとか見ながら泣きがち。

でもこの涙ってなんか反射みたいなもので、特に深い意味はないというか、泣いたからって心がスッキリするとか、何か解決するとか、すごく嬉しいとかすごく悲しいとかそういうわけでもない。

じゃあ大きな感情の昂りで泣いている時ってどういうときかというと、もちろん悲しいことがあったり、すごく嬉しいことがあったり(あんまりないなこの経験、大学受験の合格発表くらいか?)したときだ。それともうひとつ自分の中にあるのが、自分が解放されたとき、というのがある。

自分が解放されたときってどんなときなのか、具体的に説明するのはとても難しい。抽象的に言えば、自分を縛り付けていた枷が外れた時だ。枷をつけているのは他人かもしれないし、自分かもしれない。

自分の身になにか気づきというか、自分が言うなれば一歩前進したとか、なにか大きな気づきを得た時とか、ただただ涙を流すことしかできなくなることがある。

きっかけは色々なものがある。例えば、今でも覚えているんだけど、涙も枯れたと思っていた 2015 年の年初ごろ、僕は ○○妻というドラマのエンディングと、そのドラマのエンディングテーマだった椎名林檎の至上の人生を聞いて、誰もいない実家の居間で泣き崩れていた。どんな風に泣いていたのかは僕しか知らないはずだけど、日本語で適当な表現は慟哭だと思う。

本当に涙が枯れたのはあのときだったのかもしれない。

冗談ではなく詳細は忘れたんだけど、あのとき自分のなかでパズルのピースがはまったような感覚があって、感情の蓋が外れてしまって泣くことしかできなくなった。

そんなことは人生でそう何回もあることではないと思うんだけど、いまのところ 2 回ある。このエピソードも入れて。

僕の場合、泣いているからといって何か深い考えがあるわけではない。あと人前で言うほど泣かない。

だけど考えの整理の結果泣くことはあって、人生で何度もないけど、そういうときはタガが外れたように泣いてしまう。

最近涙もろいんだけど、別に後者の意味ではなく、前者の考えなしの涙が増えているだけなので、特に気にしていない。後者が増えることはないだろうし。

ろくでもない人生を歩んでいると自分では思っている、という話は何度かしていると思う。してないかもしれない。

そのろくでもない人生のろくでもなさを思い出す曲というのがいくつかある。

染みついた思い出は時に重くのしかかり、その曲を聞くことさえ嫌になることがある。残念ながらいいことを思い出せる曲はない。
思い出に閉じ込められて — Diary over Finite Fields
https://blog.515hikaru.net/entry/2018/11/18/191133

この、聞くことさえ嫌になった曲をこの記事では呪われた曲と呼ぶことにしたい。呪ったのは僕なのでマッチポンプ感があるのだけどあまり気にしない。

そしてせっかくなので(何がだ?)、そうした呪われた曲たちを紹介しようと思う。どれも僕が普段あまり積極的に聴こうとは思わない曲だ。

Mr.Children

どうしても時期柄、Mr.Children が多い。まずは Candy。

大学 3 年生のときにため息つきながら聴いていた気がする。

他にもあるけど、もうひとつ選ぶならくるみかな。

くるみの Official MV

くるみはどちらかというと高校時代のことを思い出す。いいことも思い出すのだけれど、嫌なこともついでに思い出す。

東京事変

代表曲でもなんでもないが、個人的にはスイートスポットがそれだ。

スイートスポット Live 版

本当にいい曲なんだけど、聴くたびに心臓を鷲掴みにされるような心地がする。

サザンオールスターズ

真夏の果実。

まぁ、これには泣かされましたね。

CIVILIAN(Lyu:Lyu) メシア

メシア Official MV

なんと言えばいいんだろうね。メシアという曲は呪いの曲なのか解放の曲なのかよくわからない。

呪いを閉じ込めた一曲も、こうして聞いてみると懐かしいとさえ思える。

呪いという言葉を使いたくなるほどには、自分の人生の中でもトップクラスの出来事がそれぞれの曲に染み付いていて、それはある種の自分の人生の彩りでもある。暗い色をしているとは思うけれど、でもそれは確かに僕の糧になっている。

なんて、10年近く経ってやっと言えるようになった。

ここ数か月、ほとんど歩いていける範囲しか移動していない。

食事処、映画館、ドラッグストア。それ以外の場所には一切行かず、ほとんど誰にも会わず過ごしている。

誰のためでもない、感染症におびえているわけでもない、ただ外に出ない日々が続いて、わざわざ出る気にならなかったというだけのことである。

昨晩と今日は、そんな日々を一時的に脱してみることにした。昨晩は友人と飲みに行き、今日はなんとなく本屋に行った。目的のない外出など、何か月ぶりかわからない。

長らく出かけておらず気づかなかったが、思っていたよりも世界は「普通」になっていた。良くも悪くも。

Twitterでしか見なかった「パーティ」をしている集団だとか、なぜかバスで歌うアイドルだとか、アプリの広告を流すトラックだとかに遭遇した。そう、街というのは情報量が多い場所だったなと思い出した。

そして出かけてみて、終わってみたら却って出かけないほうがよかったな、という気持ちになってしまった。

というか、疲れてしまった。

なんで出かけるだけでこんな疲れないといけないんだろう。マスクをつけようとか、電車では距離をとってとか、行く先々で突き出されるアルコール消毒とか。

それが不要だとか言うつもりは全くないのだけれど、こんなにも「普通」にみんなが過ごしているのに、物事も隙間にパンデミックの影が刺して、疲れちゃうんだよな。

何が問題なのか、どうしてほしいのか、別に僕の中に答えがあるわけではないし、そして感染症の基礎知識もない自分が文句をつけることも間違っていると思う。

だから、というわけではないけど、また2週間くらいは外に出なくてもいいかなぁなんて思った。正直うつらない、うつさないなんてことよりもずっと、外の世界が窮屈すぎて行きたくない。

在宅勤務が始まって1ヶ月ほど経った。既に在宅勤務に慣れている人、大都市圏在住の方などで、緊急事態宣言を受けてこれから在宅勤務が始まる人、いろいろな人が居ると思う。決して万人に役に立つとも思えないが、自分も1ヶ月あって、なるべくストレスを貯めないで家に居続けることに工夫できるようになってきたので、いろいろと書いてみようと思う。

前提: お前誰

自分はシステムエンジニアだ。プログラミングとか、コードレビューをすることとかを仕事にしている。

会社のIT面的には、VPNが整備されてて社内リソースに社外からでもアクセスできるし、G Suiteを利用しているためリソースは会社から貸与された端末であればほとんどのリソースにアクセスできる。チャットはSlack、ビデオ会議はGoogle Meet、たまにZoomを利用している。なのでこの騒ぎになる前から、在宅で仕事しても特に困らない環境ではあった。

自宅は1Kで、一人暮らし。ネットワークは光回線を契約していて速度でストレスを感じたことはない。一方で、自分は家を掃除したり片付けたりとかいうのがものぐさで好きじゃない。だから家具とかの整備とかもそこまで力を入れていなかった。

家とは寝るために帰るところで、そこで仕事をするとか考えたこともなかった。最もプライベートな空間である自宅を仕事で侵食してはならない、と思って生きてきたのだけれど、そんなポリシーはウイルスに簡単に崩壊させられてしまった。

工夫1: 座る場所を整える

まず最初に検討するのは家具の整備だ。といってもわたしが検討したのは椅子と机のみだ。わたしは結局こたつ机と座椅子で仕事をしている。こたつ机を捨てるのが面倒だったので、机に合わせて座り心地のよいものを検討し、結局座椅子にした。

きっかけになったのはこの記事。

まだわたしは座椅子を買おうか、それともデスクと椅子を買おうか悩んでいたころに読んだ記事だったが、これを読んで座椅子でも高いものがあるんだなと知った。長時間座ることが目に見えていたので、最低価格を1万円にフィルタして検索して下記のものを買った。

ちょっと大きすぎたかなと買った直後は思ったが、なんだかんだ快適なのでこれでよかったと思っている。

工夫2: 服を着替える

ここからは業務中の習慣の話。

定番中の定番だろうが、まずは服を着替えること。寝間着のまま仕事をしないということだ。服以外にも、なるべく出勤するために自分が身だしなみに対して行っていることを全てやったほうが良い。わたしは男なのでそこまで色々とやってはいないが、髪をくしでとかす、顔を洗う、くらいは毎日やっている。

ついでに、家を少し出るといいと思っている。不要不急の外出は控えろというが、屋外で人通りの少ない道を歩いている限り特に問題はないだろう。わたしはついでにコンビニでコーヒーを買うのがルーティンだ(ちなみに出社している時期もよくやっていた)。

工夫3: ルーティンを作る

こういうときはこうする、というルーティンを作ると良いと思う。「集中できないなと思ったらコンビニに行く」とか、「一区切りついたら甘いものを食べる」とか。なんでもいいけど何も考えずに行動に移すルーティンを作っておく。

どうせやれないときは何をしたってやれないので、休憩すればいい。その休憩の内容も決まっていると良い。もちろん会社によってルールは違うと思うがわたしはそうしている。

オフィスにいるときよりもできることが少ない。少ないからこそ、自分が休憩だとか、空いた時間だとかにできるレパートリーを増やして、実行する必要があると思う。何もしない時間は会社にとっても自分にとっても無駄なだけだ。

工夫4:話す機会を大切にする

職場次第だろうが、人によっては話す機会が極端に少なくなったりすることがあると思う。わたし自身、今日はコンビニの店員以外と口を利いていないという日が何度かあった。

人と話す時間、とりわけ雑談を大切にしたほうがいい。当然テキストでも雑談はできるが、やはり自分が声を出すということ、相手からの返答やリアクションが即座に見える状況は違う。例えば、社内会議の場に5分早く入っておいて、早めに来た人と雑談を少しするなどするといいと思う(オフィスにいるときならやるでしょ?)。そうした何でもない会話をする時間を大切にすべきだと思う。

工夫5: 地道に掃除・家事をする

最後に、業務外の話。

なんだかんだ、1日中家にいるのに家が自分にとってストレスなほど汚い環境だと困る。休みの日や業務前後に少しずつ掃除をしていくのがいい。

わたしは料理と、洗濯を高頻度でやれるようになった。例えば寝具がきれいになるなどの副作用があった。普段はやりきれない家事をこれを機にこなすのもいい。自己肯定感も増すし、気晴らしや時間つぶしにもなる。

工夫6: なにか作る

独りで居る時は基本的に何かを作ると良いと思っている。わたしの場合はそれが料理だった。それが好きな人は小説を書いたり、絵を描いたり、作るものはなんでもいいと思う。

今はどうしても人が孤独になりやすい時期だ。しかし孤独はうまく使えば力にもなる。

孤独とは単にマイナスだけを意味するものでもない。孤独であるからこそ真価を発揮する人だっている。仕事はそうでなくても、孤独を自己表現の時間に使うのはとても健全で、有効な時間の使い方だと思う。

終わりに

人と人とが集まってはいけない、というのは思いのほか強い制限であるのだと初めて認識した。かつて権力が、人が集まることを危険視してその営みを弾圧した歴史があって、日本では集会・結社の自由なるものが憲法で保証されている。だから我々がイベントでどれだけ集まろうが、反権力を標榜した音楽でわめき踊ろうが、自由なのだ。そうした自由を権力が弾圧できないというのが、我々を自由たらしめている一因だ。しかしこの自由のおかげで、却って感染症が広まりこの自由が危機に瀕してしまうというのは皮肉なことだと思う。

わたしも自由でありたいので、移動に事実上の強い制限がかかっている今の状態は非常にストレスを感じるし、ニュースを見てもSNSを見てもみんな同じ話題ばかりで気が滅入る。

でもこんな時だからこそ、日常の些細な喜びとか、自分が大切だと思ったこととかを、心に留めておいたり、発信したりしていきたい、とも思っている。それは不要不急でも、不謹慎でもない事柄のはずだ。

Originally published at https://note.com on April 10, 2020.

具体的なことは書かない。

昔、ある人を好きになった。自分は浮かれていた。よく覚えている。散々浮かれていた。

だけど告白したときに、思いもよらぬ返事がきた:「わたし、結婚してるの」

そこから、僕の迷走が始まった。

結婚している人を好きになった、まぁそれだけの話である。念の為先に書いておくと、別にやましいことは何もない。強いて言うなら1度くらい手を繋いだくらいのかわいいものだ。それくらいは大目に見て欲しい。

僕は彼女に囚われていた。結婚指輪もつけていなかったし、彼女は「あなたを好いている」と伝えた僕にさえも平然と接していた。内心がどうであったかは僕は知る由もない。

最初のほうこそ混乱した僕も、いつしか彼女とさらに頻繁に話すようになっていた。大学へ向かうまでの乗り換え駅、そこにあるスターバックス。暗黙の了解、だいたいこの時間帯にこの席に彼女は居た。僕はそこに”通って”いた。

なんでそんなことをしたのか、自分でもよくわからない。終わった今となればどう考えたって自分は近づくべきではなかった。だけど、告白する前よりもさらに僕は彼女に溺れていった。

その日々は楽しかった。心の底からそう思う。僕は平日の朝が楽しみでならなかった。彼女と話せるからだ。彼女とはなんでもない話をたくさんした。おいしいお菓子をもらった。おいしいコーヒーを飲んだ。たまに休日にふたりで出かけた。

でもそれだけだ。どこまで行っても、それだけだった。僕にできることは、それでいいのだと諦めるか、その幸せを手放すかの二択だった。

ある日、水族館に行った帰りに、僕は思った。「このままではいけない」と。悩んで、悩んで、でもどうしても問題を先送りにするかここで断ち切るかしかなくて。

僕は、問題を先送りにするのをやめ、彼女とのこの関係をやめることにした。それを決意したとき、僕は初めてウイスキーを飲んだ。バーという場所にいって初めて行って、飲み方はと聞かれて「アイスロックで」とかっこつけて言ったのを覚えている。アイスロックなんて言葉はないって気づくのはそこからしばらくあとのことになる。

いつだったか。僕は彼女にもう一度『好きです」と言った。何度言おうと彼女の返事はNoだった。知っていた。知っていたけど、寂しかった。

別れの日がやってきた。

彼女に「たぶん、もう来ないです」と言った。いつもの喫茶店、いつもの席。

僕だけが独りで店を出た。彼女にとっては、なんてことのないことだったのかもしれない。だけど僕は店を出た瞬間、涙が止まらなくなった。

僕は大学にいけなくなった。遊びにも出られなくなった。彼女と歩いた道を、彼女と行った場所を、何をしていても思い出してしまう。講義を受けていてもひとりでに涙が溢れる男に、居場所なんてなかった。

リストラされたサラリーマンのように、平日の真昼間に居るべき場所でない場所に、場に似合わない荷物だけもって僕は毎日外出していた。毎日泣いていた。地獄だった。誰も泣いている僕になんて気づかないことだけが救いだった。

でもその時はまだ、それが終われば、自分が泣き止めば、また以前のような自分が帰ってくるのだと信じていた。数学に熱中する自分とか、ただリア充に嫉妬できる自分とか、恋を知らない自分に戻れると思っていた。だから、僕は僕を殺そうとした。僕を殺すために僕は泣き続けた。

あれから何年も経つ。僕の日常は戻らなかった。この表現は決して”正しく”ないと思うけれど、敢えて書く。僕は、自分が人生で初めて、心の底から欲しいと願ったものを手に入れられなかった。その瞬間、全てがどうでもよくなってしまったのだ。僕はあのとき熱中していた数学をやめた。数学より大事なものを知ってしまったからだ。僕は大学院を休学するときに長い文章を書いた。だけどそれは嘘だ。僕が数学をやめることなんて、もっと前から決まっていたのだ。

いまこれを書きながらも、僕は泣いている。いつもそうだ、涙なしで思い出すことができない。身体が震え、心臓がバクバクいって、思い出すなと身体が訴えてくる。思い出すのをやめれば、この文章を書くのをやめれば僕は楽になれる。いつもそうして、楽な方へ逃げてきた。

だからこんなことを書くのに何年もかかった。

こんなことなんて経験したくなかった。僕はただ、普通に生きたいだけだった。もう5年以上経つ。時間が解決してくれるって安易に人は言うが、時間が解決できないことだって少しはあるのだと知った。僕はいまだにあのときの出来事に囚われている。

どうしようもなく、僕は恋をしていた。それが叶わなかっただけ、よくある話。ただ無為にひとつの出来事を引きずって、何もできない自分を正当化しているだけ。

何度そう結論づけても、僕の心は晴れなかった。

ひょうひょうとした受け答えしていた彼女、読書が好きだというけど一貫性はなかった彼女、車の運転がとても荒かった彼女、古典が好きという彼女に合わせてアンナ・カレーニナを読んでみたら「あんな長いのよく読めるね」と言われたこと、興味ないけど村上春樹の話をされたので短編を読んでみたこと、いろんなことを思い出せる。

何度だって言おう。僕は彼女が好きだった。何年も前の話だけど、僕は彼女のことしか考えられなかった。

でも僕は変わらなければいけなかった。彼女を好きで居てはいけなかった。だって、その恋は叶うものではないから、その先にあるものは絶望とか地獄とか、そういう名のつくものだから。だから僕は自分を殺した。自分を変えなくてはならなかった。

でも何年経っても、僕は変わらなかった。どれだけ泣いても、どれだけ時間が経っても、僕は変わらなかった。それが、今の僕だ。

幸せになりたい。僕はいまそう思っている。だけど同時に、幸せになんてなれないとも思っている。

だって。

いや、これ以上醜い自分を表すのはやめておこう。

何が言いたかったんだろう、何が書きたかったんだろう、もうわからない。手が震えている、身体が震えている。

この文章を書いたのは、少しでも楽になりたかった。自分の中にしかないものを、どれだけ汚い汚泥でも吐き出して、楽になりたかった。ただ、それだけ。

ただ、それだけ。

要約

  • Poetry には現在(1.0.3)、 npm run <task name>pipenv run <task name> のようなタスクを実行する機能はない
  • tool.poetry.scripts セクションは ユーザーに提供するコマンド名や実行ファイル を指定するセクション

scripts 機能とは何か

特定の記事を挙げることはしませんが、ときおり Poetry の scripts 機能を使ってタスクランナーのような機能を実現している記事を見かけます。例えば、Web アプリの開発で poetry run runserver でテスト用サーバを起動したりとか。

しかし、 Poetry の公式ドキュメントによれば、この機能はタスクランナーのために作られた機能では ありません 。この機能について、次のように説明されています。

This section describe the scripts or executable that will be installed when installing the package

すなわち、あなたが開発しているパッケージが インストールされた際 に、実行コマンド名を制御するものです。開発者が使うタスクではなく、 パッケージをインストールしたユーザーが使うコマンド名(エントリーポイント)を定義するためのもの です。だから Python スクリプトしか指定できません(Python パッケージのエントリーポイントですから)。

そもそもですが、Poetry はパッケージの依存関係の管理、パッケージのビルド、パッケージの公開をするためのツールです。タスクを管理する機能はありません。

なぜこのような誤解が起こったか

推測ですが、考えられることとしては Pipenv(Pipfile) の scripts セクションの存在があると思います。Pipenv では既にタスクランナーのような機能が導入されていて、その機能を使うためのPipfile(TOMLファイル)のセクションの名前は scripts です。

しかしおそらく Poetry における scripts の名前の由来は setup.py の console_scripts でしょう。この機能は上に書いたように「パッケージがインストールされた際のエントリーポイント」を定義するためのキーワードです。

scripts という同じ名前ですが、全く異なる機能です。しかし同じ名前であるがゆえに、Pipenv から Poetry に乗り換えようとした人が “scripts” 機能を探し、異なる機能であることに気づかずそのまま利用してしまった、という流れなのだと思います。

ちなみにですが、 この議論 を眺めている限りみんな混乱していそうなので、日本人が英語苦手だから起こった問題というわけでもないようです。

タスクランナーとして利用する副作用

副作用としては、下記のことが考えられます。下記のようにコマンドが定義してあったとしましょう。

[tool.poetry.scripts]
start = "util:start"
stop = "util:stop"

このパッケージで poetry buildpoetry publish をしたとします。その際、ユーザーはこのパッケージをインストールすると start コマンドと stop コマンドを意図せずインストールしてしまうことになります。ユーザーのコマンドの名前空間を侵す行為であり、行儀の悪いパッケージです。

とはいえタスク定義したい

現状の Poetry では公式に提供されているタスク定義をする方法は存在しません。ad-hoc な方法を続けるか、Pipenv など別のツールを使うか、Poetry と Makefile などを併用するか、Poetry の開発を待つしかありません。もちろん、Poetry の開発に何らかの形で参加するのも手です。プラグイン機構の議論があるので、それに参加するのが最も近道でしょう。

一般に Pipenv などに向いているフローが Poetry にも向いているとは限りません。Poetry はパッケージの開発については強力なサポートをしてくれていますが、Web アプリケーションなどの開発に十分な機能が提供されているとはわたしも思っていません。複雑なタスクは Makefile を書くなどしてカバーしています。

Poetry がモノリシックなコマンドになり、何でもできるようになる未来が本当に良いものかどうかはわたしにはわかりません。そうした未来を志向する人はそのように活動すればいいと思いますし、わたしは今のシンプルな、機能が足りないと思わせるくらいのPoetryで、実はちょうど良いんじゃないかと思っています。

Originally published at https://tech.515hikaru.net on February 25, 2020.

日本独特の雇用制度というとおそらく多くの人が

  • 終身雇用
  • 年功序列型賃金

と言うと思う。ただ、個人的にはもうひとつ挙げたい。それがメンバーシップ型雇用だ。

先に結論を書くと、僕はメンバーシップ型雇用が嫌いだ。なぜ嫌いなのかと言うことをあとで書き並べるが、理屈なんて無くてただの感情の問題、音楽性違いでしかない。感情にもっともらしく文章をつけると理屈っぽくなるだけだ。あるいはこれはベンチャー企業にしか属したことがない自分のポジショントークだし、新卒一括採用の権利を行使しなかった妬み嫉みだ。

というわけでいろいろと書くけど、あまり真に受けないようにして欲しい。

メンバーシップ型雇用

メンバーシップ型雇用は、検索エンジンで調べればいくらでも謎のメディアが解説していると思うが、この記事でも簡単に説明しよう。すごいざっくり言うと「採用する人を決めて、あとで仕事を割り振る」という採用方法だ。一般に求職者は会社に入るまで自分がどんな内容の業務につくのか、どんな職種になるのかが内定が出た時点では決まっていない。

いわゆる日系企業の新卒一括採用はこの方式だ。内定を受諾した後に希望していた部署に配属されなかった、みたいな話はメンバーシップ型雇用だから起こるし、それ自体は問題視されない。会社と求職者の間の契約に、業務内容や配属先は含まれず、場合によっては会社の命令で住む場所まで指定されたりする。

対義語はジョブ型雇用だ。すなわち「空きがあるポジションに対して求人を出す」。会社が必要としている職種に合う人を探して採用する。専門職だとイメージがつきやすいだろう。例えば美容師を採用したい、と会社が考えた時には美容師の資格を持っていることが要件になるだろうし、美容師がする仕事はお客様の髪を切ったり、シャンプーやヘッドスパなどのサービスを提供したりといった内容のはずだ。こうした要件や業務内容ををまとめて明文化したのが「ジョブディスクリプション」であり、求職者はそれを読んで応募する。採用が決まった後で、ジョブディスクリプションと全く違う内容の業務に従事させたり、そこに書かれていない仕事をさせるのは問題になる。

補足

メンバーシップ型雇用は、終身雇用を前提にしている。つまり、会社がその雇用を保証する代わりに、どんな労働力として使われるかも含めて会社に委ねるという仕組みだ。転勤させられるかもしれないし、やりたくない職種をずっとやらされるかもしれない。ただ年功序列なので居続けると賃金は上がっていく。

嫌う理由

冒頭に述べたように、僕はメンバーシップ型雇用を嫌っている。理由をいくつか述べる。冒頭にも書いたけどこれはポジショントークであり、妬み嫉みである。

ちなみに「生産性を落とす」とか「デキる人に仕事が集中する」みたいな話は書かない。それもあると思うけど、実例を見たことはないので、あくまで外側から観測した僕の感想を書く。

終身雇用が前提の仕組みであること

自分の父親が実は転職を数回している。祖父は(父方も母方も)漁師だから雇われの身ではない。だからそもそも終身雇用なんて自分とは関係のない文化圏の話、おとぎ話だと思ってる。終身雇用で死ぬまで生きたモデルケースをただの1人も知らない。社会の教科書に終身雇用について書かれてたな、くらいで実感がまるでない。

だから新卒採用で会社になぜそこまで何もかも指示されなければならないのか、全く理解できない。頭では終身雇用というのは非常に大きな利であって、その代わりに様々な制限がなされるという理屈は理解できる。でも終身雇用で転職経験なしで生きた人を1人も知らないから、その利は全く理解できずにただ制限されている印象しかない。

極端なこという人は、今の大企業も定年のころには潰れていると言うかもしれない。ただ大企業には大企業になれただけの理由がやっぱりあるので、どんな大企業もつぶれているとはちょっと思えない。少なくともベンチャーのほうが頻繁に潰れている。だから終身雇用を当てにする就活もそこまで的外れではないんじゃないかなって思っている。だけど終身雇用で働きたいという意欲がまず無いから、メンバーシップ型雇用も受け入れがたい。

不平等であること

とにかく求職者側に不利な雇用方法だと思う。業務内容はわからない、働く場所さえもわからない、なんなら会社の都合で容赦なく変わるかもしれない。そんな状況でその組織に働くことだけが決まっている。

本来、労働契約とは対等なもののはずだ。むしろ資本主義黎明期の反省から、使用者は労働者と契約をする上で強い制限が課せられている。何もルールがなければ、使用者が圧倒的に有利なのが労働契約の場だ。最初から労働者は不利なのだから、労働者は労働契約の場の不平等さ、使用者の態度や振る舞いに敏感であるべきだ。

これは個人の感覚だけれども、僕はメンバーシップ雇用は求職者に対してとても不利であると感じる。会社が「今」確実に保証することはせいぜい賃金とか社会保険程度だ。なのに内定者には様々な制限が課されるし、職場や住居などの条件が確定する前に内定を受諾するかどうかを迫られる。

僕が受けているようなベンチャー企業の中途採用ではそこまで不公平さは感じない。提示された条件を受け入れるか受け入れないかだけだが、少なくともソフトウェアエンジニアとして採用されたがソフトウェアエンジニア以外の仕事をやる、ということは考えづらいし、住居などの調整は内定受諾前にできる。そこに不公平さは感じない。

組織の窮屈さ

自分の人生は自分のものであって、会社のものではない。

僕は大学生になったときに、自分が自分でいられるということに感動した。それまでの僕はたとえば「〇〇中学校のひかるくん」であったし、「〇〇高校のひかるくん」であったわけだ。それが証拠にいつも制服を着させられていた。常に「なにかに帰属している」自分でなければならず、その集団が是とする規範に従わなければならなかったのだ。大学生になったときにその不自由から解放された。さすがに法律に従う必要はあるが、髪が耳にかかって怒られるみたいな理不尽からは解放されたわけだ。

一方で、企業は自分たちの文化を新卒に押し付けてくる、まるで中学校や高校のように。メンバーシップ型雇用は自分を労働力としてみるのでなく組織の一員として見てくる。こう振る舞うのが善であると他所では通用しない規範を押し付けてくる。アホくさ。大学生になりやっとその窮屈さから解放されたのに、なぜもう一度あの窮屈な暮らしに戻らなければならないのか。

個人の自由が侵害されること

仕事を選ぶことは会社を選ぶことでは決して無い、というのが僕の考えだ。どんな会社で働いていたとしても、業務内容が違えばそれは違う職業だ。経理と総務が同じ職業なわけないだろう。

仕事を選ぶ権利は労働力市場において重要だと思う。にもかかわらず、メンバーシップ型雇用はその権利を個人から剥奪する。合法ではあるのかもしれないが、会社に自分の求める自由を侵害させるような生き方を、僕は選ばない。

まとまらないまとめ

いつも思っていることを書いた。いくつかは大学時代から思っていたことで、いくつかは会社員になってから思うようになったことだ。書いているうちにメンバーシップ型雇用に文句言っているのか終身雇用に文句言っているのかわからなくなったけど、表裏一体だから仕方ないねということでお茶を濁しておく。

僕は新卒一括採用の場に居たことがない。ただ観測範囲内では”どの会社に入れたか”でマウントとっている人が居た。あまりにも価値観が違いすぎて話にならなかった。例えトヨタ自動車に入れたとしても、経理とか人事担当なら僕はやりたくないぞ。

ちなみに大学の事務員とかも定期的に配属が変わる。どうやら癒着とかが起きないよう定期的に異動させられるらしいのだが、異動はプロパーだけなので10年同じ現場にいる派遣の人のほうがそこにいるどのプロパーよりも詳しいみたいなわけわからん自体が起きていた。大学時代は意味がわからなかったけど、会社にもそういう場所があるようなので、そういうもんらしい。

だらだらと書いたけど、本当に言いたいことはひとつだけ。「気持ち悪い」。

僕は自分の権利とか自分が自由であり続けられるかについてすごく重視していて、もっと敏感でありたいと思っている。その原則は僕の人生は僕のものだからだ。親のものでも会社のものでもない。だから、自分の人生を(僕が思う)必要以上に売り渡すような行為がとても気持ち悪いと感じる。

もっと自分の人生を大切にしたいよな。

Originally published at https://blog.515hikaru.net on February 23, 2020.

大学時代はそんなに真面目に勉強していなかったのだけど、高校時代はそこそこ(?)勉強していたつもりなので、いわゆる受験勉強ってやつにはそれなりに取り組んだ。こう見えても真面目だったのだ。たぶん。

ところで、最近自分の英語力のなさに困っている。会話ができないとかリスニングができないのもあるけど、何より書けないのが実害を伴って困っている。こうして雑に日本語を書いているのに、これが英語になると比較的文法的な厳密さを必要としないはずの GitHub の Issue Tracker に投稿するのでもめちゃくちゃ時間がかかる。

でもなんとなく(本当になんとなく)英語の記事とか書きたい*1 し、英語の勉強をしなきゃなぁと思ったんだ。だけどそもそも、かつて英語の勉強をどうやってしていたんだろうかと思った。

そこで大学入試のことを久しぶりに思い出そうとしたんだけど、あんまり思い出せない。

なんか当時は受験勉強のサイトとかを読んでいて、その人の方法論を参考にしていた気がする。とりあえず「知らない」と思った単語は単語カードに書いて、何度も何度もチェックしていた。単語カードは3種類に分かれていて、

  • 覚えていないものがRED(リングにかけておく)
  • 覚えかけのものをGREEN(箱1)
  • 覚えたものがBLUE(箱2)

とかそんな感じ。REDは常に持ち歩いて、覚えてきたなと思ったらGREENにうつす。GREENの箱に入っているやつは週末に覚えたかどうかテストする。GREENのテストで覚えたやつはBLUEに行き、覚えてなかったら(忘れてたら)REDに戻す。

説明したはいいけど、気持ち悪いことやってんなおい。受験勉強だからできたんだろう。

さて、大人になって英語を勉強しようと思ったとき、ぶっちゃけ何をどう勉強すればいいのかよくわからない。自分の目的としては英作文ができればいいのだけど、添削を受ける機会もないし、そもそもカンペキな文章が求められることはない。僕が英語を書く場所は(今の所)英語を母語とする人ばかりではないからだ。そういう人が多いだろうけど。

で自分に何が足りないのかと言うと、これまたよくわからない。強いて言うなら「慢性的に」足りていない気がする。そもそもまず忍耐力がない。最近Google翻訳に頼りがち。

いわゆる入試に出る英単語みたいな、そんなのを学ぶ必要は流石にないと思っているし、あと英文法クイズみたいなのもそこまで苦手ではない(と思っている)。TOEIC や TOEFL の勉強をするのもなんか違うし。

意外と手っ取り早いのは「とりあえず語彙力をつける」ことと「英英辞典をひきまくる」ことかなとか思ったんだけど、あまりに漠然としているので評価が難しい。

別に受験生ではないけど『英文解釈教室』とか、『基礎英文問題精講』みたいな参考書をやるというのも一つの手。昔お金とか時間の都合でそこまでできなかったしね。知らないことがいっぱいあるなら、やる価値はあるだろう。

う〜ん、英語の勉強ってどうしていたっけなぁ。そしてどうすればいいんだろうなぁ。

Originally published at https://blog.515hikaru.net on February 16, 2020.

これは特に意味のない、長い独り言だ。

自分がプログラミングを始めた頃から考えると、検索エンジンで物事を調べるのは難しくなったなと感じる。もちろん今でも毎日何かを調べているのだけれど、「上のほうにあるサイト」を読めば解決するわけではない、ということが日々増えている気がする。

PV数を稼ぐために、運営は収益化のために検索エンジンへの最適化(SEO対策)をする。僕のブログ(https://blog.515hikaru.net/)もそうだけど、Googleからの流入はやはり圧倒的に多い。SNSからの流入、バズった時のSmartNewsなどのメディアからの流入も一時的な数としてはすごいけど、ほとんど継続にはつながらない。コンスタントにPV数を稼ごうとしたらGoogleが一番だ。

そんなわけでこぞってSEO対策がなされた結果、記事の内容だったり、そのサイトの内容だったりよりも、SEO対策が十分になされているサイト、もしくは広告を出稿しているサイトがトップに表示されやすくなっている、というのがよくある見解。

じゃあ僕がプログラミングを始めた頃、それこそ5年前とかってどうだったか考えると、プログラミングスクールのブログとかはなかったし、英語のQAサイトを機械翻訳しただけのサイトもなかった。僕が読んでいたのはQiitaか個人ブログ(はてなブログが多かったかもしれない)がほとんどだったように思う。たまに企業技術ブログ、ごくまれに個人サイトがあった。

そんな時代に僕も技術記事(らしきもの)を書いていた。これらはGoogle Search Console で見る限り、今でもたまには読まれているようだ。Vim の設定の仕方とか、LaTeX についてとか、Linux でハマったこととか。もうわたしも利用していないような内容だけれど、たしかにわたしは書いていた。

こうした記事をありがたがるのは、未来の自分かもしれないし、未来の自分ではない誰かかもしれない。そう思って、書いていた。ところがどうだろう、いざ何年も時を経てみると「そもそももう興味がない」対象だったりする。僕は何年もRubyを書いていないし、何年もLaTeXのプリアンブルをいじっていない。Vim は使ってこそいるけど様相は様変わりしていて、僕の書いた情報は僕には役に立たない。

一番の想定読者だった未来の自分にとって全く需要のない記事を量産していたことに、時間が経って気づいた。

最初のほうに述べたように、今の時代、プログラミング初心者のためにものを書くことに強烈なインセンティブが存在する。なのでときには批判を受け炎上に近いことが起こりながらも技術記事が大量に蔓延する自体になった。

Google検索が難しくなったことと関係があるのか知らないが、技術記事にお金を払うことがかえって当たり前になりつつあるような気もする。技術書典など、技術同人誌を書くムーブメントもあるし、note.comやBoothのような場所では自分が書いたものを自分の納得いく値付けで販売できる。商業出版でも技術書出版のラムダノートさんとかが面白い書籍を出版している。最近わたしは翔泳社の本をよく買う。

だけど、自分がそこに何か一筆でも貢献したいとか、もう思えなくなってきた。

まず僕にインセンティブがない。良くも悪くももはや僕はプロになってしまった。5年くらいプログラミングをしていて、うち3年は仕事で書いているのだ。年数だけではないとは思っているのだけど、もう僕には初心者の気持ちはわからない。初心者、初学者の需要を満たせる記事を書ける気がしないし、そんな努力をする気もない。そんなことをするより自分が普通にプロとしてコードを書いていたほうが儲かる。

自己満足のためなら、書きたいことを書きたいように書いて、そのままネットの海に埋もれさせておけばいい。下手に目立つとイチャモンつけられるし。お金も取らず、特にバズりもせず、そのままそこにあるだけなのがちょうどいい。

言い訳である。僕は毎日(その総体は誰にもわからんけど)エンジニアコミュニティから何かを得ているわけで、そのコミュニティに還元しない姿勢はとても誉められたものではない。自覚している。Take しているだけでなく、何でも良いから Give すべきであるというのは正論だ。

でもじゃあ書けるかって言うと書けないんだよな。例えば自分が詰まったことを解決する方法を記事に起こしてみると、公式ドキュメントのこの節読めばわかる、README読めばわかる、このIssueに対策書いてあった、Discordで同じこと質問してる人いたよ、それで説明つく。僕がわざわざ文章を書いて説明するまでもなく、URLを羅列すれば十分じゃんって思う。

むしろなぜ昔の自分は記事を書いていたんだろう、不思議でならない。

最近ショックを受けたのが、とうとう自分が Twitter でフォローしている人が「上級国民」なる言葉を使っているのを見たことだ。

そんなことでいちいちショック受けていたら生きづらくてしょうがない世の中ではある。だけど、どうにも納得行かないというか、モヤモヤした気持ちが残っていて、「何がこんな言葉を生んだんだろうなぁ」などと思いながら本屋を歩いていたら、そのものズバリなタイトルの本があったので買った。

無鉄砲な選択と、裏支えする幸福

この本の良し悪しはどうでもいい。ただ少なくともそこまで論理的な本ではない。

読んでいて思ったのは自分はあまりにも幸運すぎるなということだ。僕が大学受験にのめり込んだのは、勉強が一番ラクだったからだ。言い換えると、勉強以外の全てがしんどかった。もう二度と高校生はやりたくないのだけど、その理由は勉強ではない。受験勉強が一番簡単だった。

僕が大学に入った年は民主党政権の後期で、日本経済は停滞しきっていた。就職難で内定が出ないと嘆いている人が大勢いた。でも3年くらい経つと、いつの間にか「就職なんて簡単だよ」って空気になっていた。

僕自身は数学を学んだり、プログラミングを学んだりしたけど、当時はまだ年収がどうとか一切考えていなかった。ただ自分が興味を持ったこととか、比較的良い成績が取れそうな科目を選択しただけ。「普通の企業に普通に就職できる気がしない」とは思っていたから、大企業を避けてスタートアップに就職した。もちろんこの出会いも偶然。

とにかく運が良かった。何から何まで。

たまたまノリで選んだ道が、なぜだか世間の潮流と合致してしまい、僕はこうしてなんとか生きていけている。ただ同じことができるのかとか、この幸運がどれほど続くのかとか、いろいろと不透明なことだらけだ。下手に過去を積み重ねてきてしまったからこそ、未来が恐ろしくなる。自分がいまそれなりに健全に生きているのは偶然でしかないと思うと怖くなる。

生きる

何が言いたいわけでもないんだけど、自分の人生を下支えしているものがとても薄っぺらいもののような気がしてならない。今生きているのはたまたまで、明日一歩踏み出せば落とし穴にでも落ちるんじゃないかって恐怖が常にある。しかもこの国にはちゃんとしたセーフティネットがないしね。

未来、つまりはわからないものを怖がっていてもしょうがないんだけど、そんな想像をせずにはも居られないし。

あ〜あ、生きるって面倒くさいよなぁ。

Originally published at https://blog.515hikaru.net on February 2, 2020.

515hikaru

自分語り専用ブログをやっていく。

Get the Medium app

A button that says 'Download on the App Store', and if clicked it will lead you to the iOS App store
A button that says 'Get it on, Google Play', and if clicked it will lead you to the Google Play store